【手の幸せは、人生の幸せと言っていいのではないか】という、懸案について

【手の幸せは、人生の幸せと言っていいのではないか】という、懸案について

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最近、いや、ここ2年くらいだろうか、そんなことを考えています。

それまでは、「幸せは脳で感じる」もんだ、あるいは幸せは脳が設計すべきものなんじゃないか、と、なんとなく思ってました。

でも、違うんじゃないか。実は、人間は「末端」が幸せなら、幸せな人生を送ってるって言っていいんじゃないのだろうか。そんな気が最近とくに強くするのです。

たとえば。

ぼくは手を使っているときには、すごく充足しています。なにも考えてはいないけど、手が幸せになってるってのはわかります。カトラリーを手で彫ってるときなんか、ぼくの手は最高に幸せ。手が喜んでる。

ということは、同時に、全体としてのぼくも幸せになってる、ということでいいんじゃないか?

そのカトラリーが売れなきゃ幸せとは言えないのじゃないか?

と抵抗してみるものの、それはまったく別の、違う次元の問題なのですね。売れなくても、なんの破綻もなく、ぼくの手は幸せなままです。

なぜなら、カトラリーは「道具」であり、ということは、できあがったときには、多い少ないは別にして「価値」を生みだしているのに違いないから、です。使えるものができちゃうわけですからね。

売れなきゃ、ぼくが使えばいいし、なんかのお礼に誰かにあげるのもグッドです。

直十(c)

その点で、鱒の彫刻は、趣味のものなので、微妙な位置にあります。興味のない人にはなんの値打ちもないわけで。でも木のカトラリーだって、そういう意味ではあまり差はないのかもしれませんが。炊事や食事の道具に興味のない人だってたくさんいるわけですからね。

「末端」にはいろんなものがあります。手はもちろん、舌や目、耳、足の裏、皮膚、のど、とにかく突起してる部分とかへこんでる部分とか。腸内も末端といっていいんじゃないですか。そういった部分が幸福であるのならもう、その器官を所持してる本人もきっと幸せなんじゃないか。本人にそんな自覚がないとしても、です。

幸せを感じるのは脳じゃなくて、じつは末端なんじゃないだろうか。人生ってものは、じつは末端のためにあるんじゃないのだろうか。脳なんてものは、末端のあとにできてきたものなんじゃないか。末端が先にでき、それをうまく働かせていくために脳が形成されたんじゃないのだろうか。

・・・そんなことを、思います。

これまでの人生、じっくり考えて計画的に何かをやって、うまくいったためしがありません。

うまくいくのはみな、カラダが自然にしてしまうことを起点にしていたと思います。

そんな行動はきっと誰かにストレートに伝わり、きっとなぜだか道が開けていく。アタマで描いた絵は現実にはならないもんです。

だから、あれこれ悩んだってしかたがないのだろう、と思います。とりあえず末端が幸せになれるような行動を起こすこと。それだけが、幸せに近づく唯一の道なんじゃないか。

そんなふうに今のぼくは感じています。近道じゃないかもしれない。でも、それしか道はないんじゃないのか。そういうものなのではないのか、と。

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